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朝鮮の渡来人が縄文人を征服???

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『古代朝鮮と日本文化 ~ 神々のふるさと』
著者 金達寿 1986年 講談社学術文庫

この本の序から、書き出した文です。

14ページ
八千年もつづいたという縄文時代の総人口が、小山修三氏の『縄文時代』などをみても、もっとも多いときで二十五、六万にすぎなかったというのには、ある関心を持たないわけにはゆかなかったものです。というのは、その縄文時代が終わった約千年後の日本の総人口は一挙に五、六百万となっているからです。もちろんその千年後というのは、弥生時代、古墳時代をへた奈良時代のことであります。八千年ということからすると、その八分の一にすぎないわずかな千年足らずのあいだに、日本列島ではいったいどういうことがおこったというのか。あるいは在来の縄文人と、弥生・古墳時代人とのあいだに何が起こったというのでしょうか。

15ページ
「・・・弥生時代に朝鮮半島から新たな人集団が渡来して縄文人を征服した歴史があるにちがいない。」

18ページ
「・・・八世紀の初めまでには、東国にも大和政権の軍隊がやってきた。そしてまもなく、坂上田村麻呂による蝦夷征討がが行われたが、これは東征軍が東北地方にも入ってきたことを示している。坂上氏は直系の渡来人とされているが、・・・」

24ページ
以上みてきたことでわかるのは、狩猟採集民族の縄文人は、稲作農耕や青銅器・鉄器文化の弥生人に克服されたということであります。

・・・・・
まだ、序の部分しか読んでいませんが、いろんな疑問が湧きました。
なかでも、縄文時代の二十五、六万にすぎなかった人口が、奈良時代に五、六百万まで増加したという、その理由です。
「弥生時代に朝鮮半島から新たな人集団が渡来して縄文人を征服した」というのは納得しづらいものがあります。

坂上田村麻呂(758~811)の文があります。郷土の歴史にもまさに坂上氏が登場しますが、征服者ではありません。田村麻呂より300年ほど前の古墳時代、雄略天皇(在位、456-479)の時に、坂上氏は多数の民を率いて大和の国から移動を開始し地方の開拓に着手して、山口県の長門に入植しました。その後、島根県益田市上遠田に移住し土着しました。

そして、この写真は並良堤(なめらづつみ)です。飛鳥時代に坂上並良(さかのうえのなめら)が旱魃の対策として山間を堰き止めて築造した大きな溜池です。
堤下s

水面2

坂ノ上族関係地図『益田市誌上巻』276ページより

地図と下の写真は上下が逆になっています。写真では黒石神社が左、並良堤(なめらづつみ)が右側奥に見えます。
並良堤s

坂上氏の末裔が造った溜め池は1300年以上経た現在も遠田平野の農業用水として大きな役割をはたしています。

並良堤_碑文

並良堤の端に祠と石碑が建っています。

飛鳥時代672年から4ヶ年石見国に旱魃が続き田主であった坂上並良(さかのうえなめら)・身の不徳を恥じ、彼は信濃国諏訪神社から歓請を受け、この地に溜め池を築造する。680年頃完成、諏訪神社の水神・建御名方神(たけみなかたのかみ)の神霊を堰遮諏訪大明神(えんじゃすわだいみょうじん)と称して畏敬し守護神を祀る。築造者の名にちなんで並良堤と言う。平成15年10月(2003)吉日再建す


碑文を読むと郷土の誇りが感じられます。坂上氏が渡来人の征服者であるなどと思う人は一人もいないでしょう。「身の不徳を恥じ」とあるように、征服者ではなく徳のある良きリーダーという雰囲気でしょうか。
・・・・・
坂上氏が渡来人であるかはっきりしないという説や、百済系ではなく漢人系という説もある。

坂上氏ーWikipedia
坂上氏(さかのうえし)は日本の氏のひとつ。代表的な人物に征夷大将軍坂上田村麻呂がいる。後に清水寺別当、鎮守府将軍、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。

後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わるが実際にそれを示す一次資料は全く存在しない、また中国に居られなくなった阿智王が天皇に忠誠を誓い天皇の使者として呉に派遣されたあるが、これも呉に到着したのが308年(280年に呉は滅亡後)の為、阿智王が始祖であるという説は信憑性に欠ける。詳しくは、後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)であるとするという説であり、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志努であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)がこれは後に権威付けで用いられた可能性が高い。坂上志努には志多、刀禰、鳥、駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である。大蔵氏と同族。




・・・・・・・・・・
続きます
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