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新羅の来寇_石見海岸

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これは平安時代の益田川河口の絵図だが、たくさんお寺がある。
五福寺分布図

安福寺、福王寺、蔵福寺、妙福寺、専福寺と、「福」がつくお寺が5つあるので、五福寺といわれている。河口付近の狭い地区に5つもお寺があるということは、文化が高くかなり豊かだったようだ。

この豊かさは何によってもたらされたか?
このような話になると「朝鮮との貿易」という話がでてくるが、なかなか納得がいかない。
平安時代の前期あたりの朝鮮(新羅)は抗争・内乱の時期であり、衰退から滅亡(935年)の時代である。新羅が内乱や飢饉になると新羅の賊徒が日本に侵攻してきている。

新羅Wikipedia
日本への賊徒侵攻
弘仁の新羅の賊(弘仁2、821年)
貞観の入寇(貞観11、869年)
寛平の韓寇(寛平5、893年)

高麗
長徳の入寇(長徳3、997年)

・・・・・
また郷土史でも平安時代に新羅人が石見(いわみ)海岸に漂着している。

【益田市誌上巻】320ページより

清和天皇の貞観年中の石見は、新羅の国から来寇があった噂に人心は動揺していた。このような最中の同5年、美濃郡海岸に新羅人の漂着があった。「三代実録」に

同年(貞観五年)新羅国人三十余人、石見国美濃郡ニ漂着ス。死者十余人、生者二十四人、国司ヲ詔シテ程糧ヲ給ヒ放却ス。

とあるのがそれである。当時の国司は橘時成で、貞観四年正月に赴任している。
新羅人のこの時の漂着としては、津田の唐人塚がそうではないかと推定されている。漂流した三〇余人中、死者一四人は塚に埋葬し、生存したものに対しては、国司時成が食料を与えて放した。その中に、帰化を希望し定住した塩道氏がいた。
貞観十九年(877年)国司大野鷹鳥は、新羅に対する石見海岸の警備を厳重にさせた。この年に渤海人が宗佐ら五六人が漂着している。



・・・・・・・・・・
続きます
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