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占領下(1945年~1952年)_朝鮮人の暴動事件

占領下(1945年~1952年)_朝鮮人の暴動事件
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占領下(1945年~1952年)の時代におきた朝鮮人の暴動事件を調べています。
何故、戦後の占領期の「朝鮮人の暴動」を調べるかといいますと、1996年(平成8年)11月29日に在日韓国人から、益田市長、益田市教育長に宛てて要望書が提出されましたが、在日韓国人の要望が正当なものかを判断するためです。
・・・・・・・・・・
益田町史・益田市史・益田市誌に関する要望書の引用

●●●氏の問題提起
1996年(平成8年)11月29日
益田市長様
益田市教育長様
益田町史・益田市史・益田市誌に関する要望書
益田事件に関する上記三史誌のいずれも、事実関係での誤りや差別と偏見に満ちた記述が多く全面的な見直しを求める。
一、三史誌いずれのタイトルも差別と誤解を招く表現であり訂正すること。
一、史誌としての客観性、公正さにかけ在日朝鮮人への一方的偏見を助長する内容であり容認できない。
特に益田市発行の益田市誌においては、事件の発端となった発砲を伴う令状なしの違法捜査について全く触れてないばかりか、事件そのものを改竄したため、日時、人数などで間違いも多く、全く信用出来ない。
重大な問題であるので、すみやかに是正するとともに、なぜこのような粗放な記述になったのか究明して頂きたい。
さらに、同誌では放火説など全く根拠のないデマを敢えて記載し誤った朝鮮人観をうえつける結果となり、この項は削除すること。
一、鮮人『差別語』の訂正を求める。
益田市史においては、『鮮人の暴動』とタイトルのみの記述であるが、益田町史下巻では十四行の記述中『鮮人共』をはじめ五ケ所にわたって使われております。
『鮮、鮮人』については、すでに差別語として廃語となっており訂正すること。
一、同事件は最近の調べでわかった、連合国総指令部『GHQ』側の機密文書で明らかなように、在日朝鮮人を弾圧するためGHQ側が引き起こしたものであり、この旨記載すること。
以上益田事件に対する要望事項でありますが、現在一般の人達がこの三史誌に書かれた内容をみると、当時の朝鮮人は『なんてひどいことをしたんだろう』という印象を与える記述になっている。
益田事件に関する限り三史誌共、後世に残る史誌としての使命を逸脱しており、すみやかに善処すると共に事実を伝える内容に改め、また、そのための適切な措置を講じていただくよう重ねて要望いたします。

・・・・・・・・・・
↑引用文の『鮮人の暴動』をネットで調べてみました。
参考サイト
特権階級だった三国人・その1♪
朝鮮進駐軍の非道横暴
日本の暴動事件ーWikipedia




☆1945年10月22日 大阿仁村事件 
●秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

☆1945年12月24日 生田警察署襲撃事件1 
●兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。

☆1945年1月9日 生田警察署襲撃事件2 
●また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

☆1945年12月29日 直江津駅リンチ殺人事件 
●信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】

☆1946年(昭和21年)1月3日 富坂警察署襲撃事件 
●富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

☆1946年(昭和21年)1月24日 七条警察署襲撃事件 
●七条警察署襲撃事件(しちじょうけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)1月24日に京都府京都市で発生した襲撃事件。1946年1月18日、京都府七条警察署は、ヤミ米買出しをしていた朝鮮人を物価統制令違反として現行犯逮捕した。連行途中、犯人は隙を見て逃走、在日本朝鮮人連盟の支部に逃げ込んだ。警察は引渡しを要求したが朝連側は拒否した。1月24日、朝鮮人40人が七条警察署に押しかけ、署長に抗議した。また、終戦直後より朝鮮人と対立していた被差別部落出身の的屋・博徒は、「不良在日外国人、七条署に押しかける」の報に接し、急遽500人が警察の応援に駆けつけた。このとき的屋の側には、朝鮮人排除を助けることで警察に恩を売り、その見返りとして闇市で自分たちへの取締を手加減してもらおうという意図があったとされている。そして、署長が朝鮮人に手錠をかけられようとしたとき、署員とともに的屋・博徒も署長室になだれ込み、朝鮮人を実力で排除した。朝鮮人は反撃のために約700人を集結させ、京都駅前で的屋・博徒と大乱闘になった。警察はMPの出動を要請し、MPが駆けつけたことで漸く沈静化した。この事件で、被差別部落民1人、朝鮮人数人が死亡、負傷者多数にのぼった。

☆1946年5月13日 長崎警察署襲撃事件 
●長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)5月13日に長崎県長崎市で発生した、在日朝鮮人・中国人による警察署襲撃事件。1946年5月13日午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバットや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている。

☆1946年(昭和21年)9月29日 新潟日報社襲撃事件 
●新潟日報社襲撃事件(にいがたにっぽうしゃしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)9月29日に新潟県新潟市で発生した暴力事件。事件の発端 1946年9月23日付の新潟日報夕刊は、「MPも出動、坂町で深夜の乱闘」と題して、在日朝鮮人や在日中国人が新潟県岩船郡保内村(現・村上市)内で起こした坂町事件の記事を掲載した。読売新聞も事件を報じた。 事件の概要 1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した。 その後の顛末 最終的に9人が起訴され、裁判の結果、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反と業務妨害罪で有罪の判決が下った。 参考文献 『在日朝鮮人運動(実務教養選書)』(篠崎平治 1955年)『新潟県警察史』(新潟県警察史編さん委員会 1959年)

☆1947年(昭和22年)9月10日 津別事件 
●津別事件(つべつじけん)とは、1947年(昭和22年)9月10日に北海道網走郡津別町で発生した抗争事件。事件の発端 戦後、在日朝鮮人が「三国人」の特権をかさに道内の露店を荒らすようになった。露店を仕切る的屋はこの朝鮮人の暴挙に憤り、次第に反感を募らせていった。1947年の夏になり、道内各所で夏祭りが開かれたが、的屋側は「このままでは、一般人が寄り付かなくなる」という危機感から、道内最後の夏祭りを開く津別神社で朝鮮人に反撃を加えることになった。道内だけでなく本州の的屋も呼び寄せて、津別神社の祭りに備えた。 事件の概要 1947年9月10日午前11時30分頃、3人の朝鮮人が遊戯場に現れ、金を払わずに遊んだ上に、露店をひっくり返す暴挙を働いた。この場に居合わせた的屋らは3人を袋叩きにした。この3人は直ちに在日本朝鮮人連盟北見支部に連絡を取り、救援を求めた。朝鮮人連盟北見支部では早速約20人の朝鮮人を集め、夕方に出発した。途中の美幌町では竹槍や棍棒などの凶器も積み込み、さらに人を集めて最終的には約50人に膨れ上がった。北海道警察部美幌警察署は両者に分け入って、双方から3人の代表者を出させて交渉させることにした。しかし交渉は進展せず、午後11時になろうとした。そこで警察が再度介入し、解決案として「朝連は狼藉を働いた3人に謝罪と賠償をさせる」「朝連は1時間以内に彼らを引き取る」を提示し、ようやく両者の合意を得た。その頃になると、一般の津別町民約300人も現場に集まり、これまでの朝鮮人の行状を非難した。午後11時20分頃、朝鮮人側から打ち上げ花火のようなものが的屋側に落下した。これをきっかけに両者は激突、町民も的屋側に加勢して投石した。乱闘は約30分間続いた。この衝突で、朝鮮人側に死者2人・重軽傷者19人を出した。的屋側は軽傷者6人であった。 参考文献 北海道警察史編集委員会編『北海道警察史 第2巻』北海道警察本部、1968年

☆1947年(昭和22年)10月20日 尾花沢派出所襲撃事件 
●尾花沢派出所襲撃事件(おばなざわはしゅつじょしゅうげきじけん)とは、1947年(昭和22年)10月20日に、山形県北村山郡尾花沢町(現尾花沢市)で発生した事件。1947年10月20日、朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署(現在の村山警察署)の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した。

☆1948年(昭和23年)4月 浜松事件 
●浜松事件(はままつじけん)とは、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。浜松大紛争とも呼ばれる。事件の発端 戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、浜松の闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)がおさえていた。県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義である。在日朝鮮人は、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察である浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生した。小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。 事件の概要 4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は、岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。 その後の顛末 この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。 参考文献 『ヤクザ・流血の抗争史』(洋泉社編、2001年)『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典』(事件犯罪研究会編、2002年)


☆1949年1月25日年 益田事件 
●益田事件(ますだじけん)とは、1949年1月25日に日本で発生した事件である。概要 島根県美濃郡益田町(現在の益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

☆1949年(昭和24年)4月7日から4月11日 高田ドブロク事件 
●高田ドブロク事件(たかだどぶろくじけん)とは、1949年(昭和24年)4月7日から4月11日にかけて新潟県内で発生した事件である。事件の発端 1948年秋頃から新潟県中頸城郡中郷村(現・上越市中郷区)と中頸城郡新井町(現・妙高市)の朝鮮人集落で、大規模な密造酒の醸造が行われていることを地元警察が察知したことによる。取締りを徹底的に行うため、1949年春まで関係機関で綿密な計画を用意し準備を行ったため、実際の取締りが行われたのは1949年4月7日であった。 事件の概要 1949年4月7日午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14~15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市(現・上越市)においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた。 参考文献 『新潟県警察史』(新潟県警察史編さん委員会 1959年)

☆1950年(昭和25年)11月20日から11月27日 長田区役所襲撃事件 
●長田区役所襲撃事件(ながたくやくしょしゅうげきじけん)とは、1950年(昭和25年)11月20日から11月27日にかけて、兵庫県神戸市長田区で発生した公安事件。第一神戸事件(阪神教育事件)に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から第二神戸事件ともいう。事件の発端 1949年から始まったドッジ・ラインにより、デフレーションが進行し失業や倒産が相次いだ。在日朝鮮人も例外でなく、失業者が激増した。こうした状況の下で、朝鮮人は「朝鮮人生活擁護闘争」を展開、地方税の減免や生活保護の適用を求めるために、各地の役所に押しかけるようになった。 事件の概要 1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。 裁判 神戸地方検察庁は、騒乱罪、公務執行妨害罪、占領目的阻害行為処罰令違反で、合計118人を起訴した。裁判の結果、騒乱罪と占領目的阻害行為処罰令違反の成立は認めず、17人についてのみ公務執行妨害罪等で有罪となった。

☆1950年(昭和25年)12月1日 大津地方検察庁襲撃事件 
●大津地方検察庁襲撃事件(おおつちほうけんさつちょうしゅうげきじけん)とは、1950年(昭和25年)12月1日に、滋賀県大津市で発生した公安事件。1950年12月1日午前10時30分頃、日本共産党地区委員や旧朝連の幹部ら3人が大津地方検察庁を訪れ、勾留されている同志の釈放を検事正に要求した。検事正がこの要求を拒否したところ、朝鮮人約100人が集まり検察庁内に侵入しようとした。大津地検は大津市警察に警察官の派遣を依頼、大津市警だけでは足りないため、国家地方警察にも救援を求めた。警察官到着後、検察庁は解散を命じ、実力で排除した。その際に2人を逮捕し、群集は一旦解散した。この日の大津市は雨が降っており、職にアブれた日雇労働者は失業認定のために公共職業安定所に集まっていた。手続き終了後、日雇労働者は共産党員の煽動により大津市役所経由で大津地方検察庁に集まってきた。すると、先ほど解散した朝鮮人の群集が再結集して、日雇労働者の集団を巻き込むような形で、再度地検に突入してきた。日雇労働者は特に反抗的ではなかったが、朝鮮人は暴徒化し、警察官に襲いかかってきた。この事件で43人が逮捕された。 裁判 大津地方検察庁は、不退去罪、公務執行妨害罪、外国人登録令違反で、合計36人を起訴した。騒擾罪の適用も検討されたが見送られた。裁判の結果、不退去罪については無罪とし、その他の罪については有罪判決を下した。

☆1951年(昭和26年)3月7日 王子朝鮮人学校事件 
●王子朝鮮人学校事件(おうじちょうせんじんがっこうじけん)とは、1951年(昭和26年)3月7日に東京都北区で発生した事件である。1951年2月23日、蒲田警察署は占領目的阻害行為処罰令違反容疑で、東京都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)の生徒1人を検挙した。捜査の結果、当時のGHQが禁止していた「新朝鮮」「前進」「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、2月28日に同校を家宅捜査し、証拠物件を押収した。しかし、翌日3月1日は三・一独立運動記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と激昂し、所轄の王子警察署に300人、隣の板橋警察署に400人、赤羽警察署に40人が押しかけて抗議した。そして3月7日に「真相発表大会」と称する集会を学校内で開催、抗議デモを行うことになった。1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。警察は、事件の関係者12名を公務執行妨害罪、傷害罪、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕し、うち6名が検察により起訴された。最終的には最高裁まで争われたが、5名が有罪となり確定した。(残りの1名は保釈中に逃亡した。)参考文献 [編集]『警視庁史(第4)』(警視庁史編さん委員会編 1978年)『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥 1980年)

☆1952年(昭和27年)2月21日から2月23日 木造地区警察署襲撃事件 
●木造地区警察署襲撃事件(きづくりちくけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1952年(昭和27年)2月21日から2月23日にかけて、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)で発生した事件。1952年2月21日、国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している(後に警棒は木造駅近くに捨てられているのが発見された)。 脚注 1.^ 当時の日本共産党は、在日朝鮮人の入党を認めており、党員も数多くいた。現在の日本共産党は、党員資格を18歳以上の日本国民に限っている。(日本共産党規約[1]第4条)

☆1952年6月5日 万来町事件 
●万来町事件(ばんらいちょうじけん)とは、1952年6月5日に山口県宇部市で発生した暴動事件。6月5日、宇部市万来町(現在の新町9丁目)において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した。

☆1952年11月19日 五所川原税務署襲撃事件 
●五所川原税務署襲撃事件(ごしょがわらぜいむしょしょしゅうげきじけん)とは、1952年11月19日に青森県で発生した事件。1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件(密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点など)を押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠する事態にまで至っている。

☆1953年2月19日 別府市警察署事件 
●別府市警察署事件(べっぷしけいさつしょじけん)とは、1953年2月19日に、大分県別府市で発生した事件。 事件の概要 1953年2月19日、民戦別府支部員の在日朝鮮人男性が泥酔して、通行中の女性の羽織を強奪したり通行人に因縁を付けていたため、別府市警察は男性を逮捕して署内へ留置した。男性は2月21日午前11時になって容態が急変し、死亡した。死亡直後から、朝鮮人たちが続々と警察署に集結し、男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けた一方的なデマを流し始めた。彼らは署内の道場に居座って一夜を明かした。2月22日になると、「ファッショ別府市警の撲殺事件の真相」「人殺し別府市警に全市民は抗議せよ」と題するビラを市内各地に配付し、警察署前では民戦や日本共産党の活動家らが終日に渡って抗議活動を行った。2月23日は、署内で検視が実施された。民戦側は検視への立会いを要求、警察もこれに同意したため、検視そのものは平穏に終了した。2月24日に葬儀が執り行われ、約300人が参列した。葬儀後、棺を先頭に別府市街をデモ行進して警察署に突入しようとしたため、警官隊と衝突した。 男性の死因とその後の顛末 男性は逮捕前に駐留軍警備員に因縁を付けて背負い投げの返り討ちにあっていた。司法解剖では、「死因は通行人に頭突きし続けたことによる脳出血及び吸引性窒息」という鑑定結果が出た。自業自得による事故死と判定されたため、駐留軍警備員は正当防衛と判定され、署員は不起訴となった。民事訴訟も民戦側の敗訴に終わった。


☆1953年2月19日 別府市警察署事件 
●別府市警察署事件(べっぷしけいさつしょじけん)とは、1953年2月19日に、大分県別府市で発生した事件。 事件の概要 1953年2月19日、民戦別府支部員の在日朝鮮人男性が泥酔して、通行中の女性の羽織を強奪したり通行人に因縁を付けていたため、別府市警察は男性を逮捕して署内へ留置した。男性は2月21日午前11時になって容態が急変し、死亡した。死亡直後から、朝鮮人たちが続々と警察署に集結し、男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けた一方的なデマを流し始めた。彼らは署内の道場に居座って一夜を明かした。2月22日になると、「ファッショ別府市警の撲殺事件の真相」「人殺し別府市警に全市民は抗議せよ」と題するビラを市内各地に配付し、警察署前では民戦や日本共産党の活動家らが終日に渡って抗議活動を行った。2月23日は、署内で検視が実施された。民戦側は検視への立会いを要求、警察もこれに同意したため、検視そのものは平穏に終了した。2月24日に葬儀が執り行われ、約300人が参列した。葬儀後、棺を先頭に別府市街をデモ行進して警察署に突入しようとしたため、警官隊と衝突した。 男性の死因とその後の顛末 男性は逮捕前に駐留軍警備員に因縁を付けて背負い投げの返り討ちにあっていた。司法解剖では、「死因は通行人に頭突きし続けたことによる脳出血及び吸引性窒息」という鑑定結果が出た。自業自得による事故死と判定されたため、駐留軍警備員は正当防衛と判定され、署員は不起訴となった。民事訴訟も民戦側の敗訴に終わった。
・・・・・・・・・
以上少しですがネットで検索しました。
このような朝鮮人の暴動事件を読んだうえで、1996年(平成8年)に在日韓国人が、益田市長、教育長に提出した要望書が正当化どうか判断しなければなりません。



・・・・・・・・・・
続きます
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